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残念ながら、体力は元々ほとんど無いと言っても過言ではなかった。
そんな自分が何故こんなに走らなければならないのか、と彼は走りながら思っていた。金糸が風になぶられながら後ろに流れていく。
「っ、ハァ、ハァ……っ」
鉄錆の浮かんだ階段の影に入ると、ヤマトは流れる汗を乱暴に拭い、肩で息を吐いた。
ブルリ、と頭を振ると、幾分か冷静になってきた。逃げなければと思う。思いはするのに、足にガクガクと震えが走る。
『悪いな、うちのヤツらが世話になって』
そう普通に笑って言った男の顔は、間違いなくヤマトと同じくらいの歳だった。辺りに流れる緊迫感や、緊張感とまるきり無縁の穏やかな顔だったから、思わず何をしているのか、気になってしまったのだ。…それが、いけなかったのだろう。
『お前が……八神か。八神、太一か!』
『フルネームで呼ぶなよ…八神でいいって』
瞬間、怯えた様な感情が胸を走った。ぐ、と胸を押さえてから気付く。
ふるりと、首を振る。この感情は、自分の物ではない。
『なら、お前を倒せば名が上がると、そう言うわけだな、八神』
『上がるかどうかは俺の知る範囲じゃないな』
ひょいと肩を竦める動作に、怯えが益々強くなる。
『まあ別にさ、俺、あんたのことをどうこうしようって思ってるわけじゃないんだぜ?』
彼はにこりと男に笑い掛けた。
『話が聞きたいだけだから』
『へっ……冗談』
男が構えを取った。まるで冷や水を浴びたかのように、全身が総毛立つ。その全てが男の怯えから来ているのだと分かった瞬間、ヤマトの勘が「逃げなければ」と告げた。そうしなければいけないのだと。
頭を緩く振りながら、彼は一歩後退した。
『誰が話なんか……?』
音は立てていない筈だった。ここには、オーソドックスに枝が転がっているわけでも、空き缶があるわけでもない。普通のアスファルトが一面を覆っているし、特に何がどうと言うわけでもない。
だが、男は気付いた。
『っ!』
『……!!』
目が合った瞬間、ヤマトは走り出していた。顔半分だけ振り返ると、男がこちらに向かってくるのと、先程の彼がきょとんとした顔でこちらを見ているのが分かる。
気付かれた。気付かれてしまったと心の中で繰り返しながら、ヤマトはひたすらに駆けた。
細い路地をどちらに向かったのか、気が付くと足が止まっていた。
走らなければと思う気持ちが心を支配しているはずなのに、足はどうにも言うことを聞きそうにない。ガクガクと震え、額からは汗が玉となって落ちてくる。
(こっちか!?)
「!」
背筋が伸びた。男の思念が、重りのようにのし掛かってくる。それが段々重くなっていくと言うことは、間違いなくこちらに近付いてくるに違いない。
「冗談じゃ、ない…」
呟いて再び走り出した。細い路地を駆け抜けて、向こうに表通りが見えてくる頃になると、ヤマトの肌を何かがピリと触れた。
眉をひそめて左腕に触れてみる。あまり感じたことの無い感覚だが、それを考えている暇はなかった。思念は明らかに大きくなっていくし、このままでは追いつかれる。
追っ手から逃げるには、人混みに紛れて逃げるのがセオリー。彼もふと頭を掠めたその案に飛びつき、表通りの人混みに紛れてはみたものの―――ヤマトは、自分の体質と言う物を全く考慮に入れていなかった。
「あ……ぐ」
視界が回る。螺旋状になって昇っていき、いつしか下っていく。立っているのか倒れてしまったのか、それすらも理解できない。ただ自分に分かっているのは、飛び込んでくる思考たちだけ―――
ジョウダンジャナイゼアノクソジジィソレジャトウトウコクハクシチャッタッテワケハイジャアコマカイノガニヒャクサンジュウエンノオカエシノヴァノアタラシイソフトカッタヨヤッダソンナンジャナイッテバチョットナニアノヒトチョットカッコイーケドビョウキウチハネユイショダイダイウケツガレテキタヤオヤカッタルイナガッコウイクノエンシカツカッテナインダヨフロウシャカナケイサツニレンラクシナイトフケチャオウカナ―――
これわなに?だれがなにおいつてる?りかいできない。なにおいわれてる?おれ?だれ?
何処までが自分で、何処までが他人なのか。思考回路は何かによって延々と拘繋されて、切り離すことすら出来ない。
そうして彼は、自分自身が叫び声を挙げていることすら、気付かなかった。
『ねえ、おかあさん』
『なあに?』
振り返った母の顔は穏やかで、それはまだ何も始まる前のことで。
紅葉のような、と形容される小さな手を母に伸ばして、彼は一生懸命言葉を紡いだ。
『なんでこんなにワンワンするの?』
『なあに、わんわんって…』
子供は聞かれて困ったように俯いた。うーんうーんと悩んでいる仕草に、母親が小さく笑みを漏らす。
古い商店街を忠実に再現したショッピングモールで、彼女は大根を受け取る事を少々楽しみながら、幼い我が子の言葉を待った。
『んーとね、うわーんうわーんってするの。あたまのおくが』
『えっ?』
返す言葉に少し困る。頭の奥がうわーんうわーん、とは一体どういう状態なのだろう?と彼女は少し考えを巡らす。もしかしたら病気なのかも知れない。連盟直属の病院に行った方が良いだろうか?
幼子の手を引きながら、彼女はショッピングモールの裏手にある、小さな公園に入った。
『あっ、ちょっとしずかになった。…ねえおかあさん、れんめーちょくぞくのびょーいん、ってなに?』
『ヤマ……』
きょとん、と彼はまだ母親の顔を見上げていた。
手が、彼から離れた。
『えっ、おかあさん?どうしてって、いまおかあさんがいわなかった?…へん?ぼく、へんなこなの?』
『ヤマト…』
少し閑散としてきた穏やかな街の景色が、妙に鮮やかだった。
《あなた!あなた!》
《なんだよ煩いな…どうしたんだ?》
《あのこ、おかしいのよ!》
《…なんだ、いきなり。おかしいって…病気か何かか?》
真っ暗な中、ぴったりと閉められた扉からは、音すら漏れ出て来なかった。静寂が痛いほど静まり返った部屋で、彼はムクリと体を起こすと、目を擦りながら首を傾げた。
《あの子、私の思ったことをそのまま口に出すのよ!私は何も言ってないのに!
…そんなことないわよね、あなた。あの子が…》
《馬鹿な…“月の息子”だとでも言うのか?あの子が?》
《だって、それしか考えられないじゃない!でも、そんな、まさか…》
夜の静寂の中。誰もが眠るこの時間、住宅区域であるこの辺りはあまり煩くはない。だが、彼にはその両親の思いが、酷く煩く聞こえていた。
「なに……?」
眠いのに、と小さく呟いて彼はドアの向こうを見た。
ドアは堅く閉ざされている。光も、音も、入ってくる気配はない。
《……だが…。月の息子が、家族に居た覚えがない。祖父母にも、曾祖父母にも…》
《それは…知っているつもりよ》
母親の声は、酷く疲れているようだった。
《でも、他に…他に考えられないのよ……どうしてあの子が…》
《とにかく、連盟機関に診て貰って、どうか判別してもらうしか…》
《いやよそんなの!もし、もしもよ、あの子が本当に月の息子だったとして…どうなるの?あの子は?》
《そう言っても…》
《お願い、それはいや…》
《……わかった、それじゃ、もう少し様子を見よう》
母親の哀しみが、さざ波のように押し寄せてくる。それを受けた彼自身も、ひたひたと哀しい思いに支配されていった。
それから数年の間は、何も無かった。親元から引き離される事も、入ってくる思考に混乱することも。
ただ、両親の不仲がその間に決定的なものとなっていた。
決め手になったのは、弟の誘拐事件だった。
『そうか』
『そうよ』
最後の言葉なんて、至って単純なもので。それは昔から今の世まで、大して変わっていないようだった。
一桁最後の歳であった幼い彼に分かったことと言えば、もしかしたら生きているかもしれない弟の苗字が、自分のものとは違ってしまう事。母とはもう一緒に居られないこと。それくらいの事しか、理解できなくて。
『お母さん、行っちゃうの?』
玄関から去る母親の背中を、ありありと覚えている。
『ええ。さようなら、ヤマト』
決して振り返らなかった、母の背中を。
思えばその後あたりからだろうか?原因不明の頭痛が、自分を襲い始めていた。
どこか遠くで、ざわざわとさざめくような「音」が常に響いていた。それは決して途切れることもなく、まるでノイズの様に思考回路を狂わせる。
途切れることのないノイズは、ヤマトの精神を押し崩し、やがて体調をも蝕み始めた。
それには彼の父親も気付いていた。いつもなら仕事から帰ると「おかえりなさい」と出迎えてくれる筈の息子が、夕食も食わずにベッドに潜り込み、頭を抱えて丸まっている。出迎えてくれた日であっても、頭痛に苛まされるような仕草をし、酷いときは倒れる事も多々あった。
それを、異常であると判断できないほど、彼も無能ではない。
『ヤマト…引っ越すか』
我が子の為に辞表を出そうと決意したのは、息子が頻繁に倒れるようになって、一月ほど経った頃だった。
行き先は父親の故郷でもある島根の片田舎だ。人が押し寄せる首都圏とは打って変わって、父親の故郷は今でも割合のんびりとした雰囲気を保っている。もちろん、島根の中心地に行けばそれはそれで人が多いのだが、それでも首都圏にいるよりかは人が少ないだろう。
息子の倒れる原因が何かは、父親にもまだ良く分かってはいない。かつて妻であった女が「月の息子」と口にしたことと関係しているだろう事くらいは何となく理解出来ていたが、ハッキリと何が原因かと聞かれれば、彼も「分からない」と答えるのしかないだろう。ただ、体調不良であるとか、心の病であるとか、そう言うものは人の少ない、空気の良いところで静養するのが一番であるのは、昔から言われている確かな事実であるし、それを彼も信じ、息子に与えてやりたいとは思っていたのだ。
島根の家は、既に祖父も他界して祖母が一人で細々と暮らしていた。自然が溢れるほど残っている穏やかな土地で、ノイズも大分軽減された、かに思えた。
彼本人がノイズの正体を自覚したのは、その家に訪れた人に対し、彼が対応した時だった。
『おや、石田のばあちゃんはいないのかね』
その言葉を聞きながら、ノイズ混じりに響いてきた言葉。
《また綺麗な子だね。外人さん?石田のばあちゃんの孫って聞いてたけど、随分と毛色の違う子だよ》
好奇心と、値踏みするような感情にまみれた、そんな言葉。
一瞬ハッとしたが、目線を逸らしていたお陰で、大して気付かれずに済んだようだった。
『え、ええ…』
『じゃあ、これ、ばあちゃんに渡しといておくれね?』
風呂敷包みを受け取りながら、またノイズの中に言葉が混じる。
《こりゃあ、みんなに言わんといけんねー》
おざなりな返事をして、そうそうに彼は引きこもった。人の裏にある、どちらかと言えば「欲」の強い思考。
流すにしても忘れるにしても、彼の精神はそれを出来るように作られていなかった。
人とは会いたくない、と思った。会えば、確実に彼の精神は苛まされるだろうし、それに耐えうる自信が彼には無かった。だが、家に籠もってばかりでは逆に気が滅入り、精神がダメになる。
もっとも、全く外に出ないと言うわけでもない。足腰が弱くなっていると言うのにケータリングシステムを嫌う祖母に代わり、ヤマトが買い物に出る場合が、時折だが有る。父親が店の開いている時間に帰って来れない以上、祖母か彼が買い物をしなければならないからだ。外に出るのを嫌うヤマトだが、外の空気はやはり気持ちがいいと思うし、何よりケータリングのものより近場で売っている物の方が、新鮮度もより高いのだ。食料は、新鮮度が高い方が良い。
『じゃ、ばあちゃん…ちょっと行って来るから』
『ああ、気を付けてお行きよ?』
祖母は穏やかな人だった。心も穏やかな人だったから、一緒に居るのは苦じゃなかった。微笑まれて、遠慮がちに微笑み返してから彼は家を出た。柔らかな日差しが頬を照らし、髪を輝かせる。
家から、販売地区はそう遠くはない。ショッピング街まではちょっとした散歩を愉しめるのだが、販売地区に近付くに連れ、何度体験しても聞き慣れぬノイズが、彼の脳裏を埋め尽くし始めた。
エエデスカラトリヒキノケンハデスネセンセイムカツクヨネーアレハアイディーガコワレタンジャナクッテセンセイガコワシタンジャンヤダマタネアガリシタノジョウダンジャナイワヨネーカノジョーオチャシナーイキイタトナリマチニスンデルヒトガネェアノオンナドウシタヨモウクッチャッタカソレハコマルンデスヨオネガイシマスカラエーウッソホントニーネードウスルクッタニキマッテンジャンソンナノエエソウナノシラナカッタ―――
街に近付くにつれ、溢れるように押し寄せるノイズ。どれがどれなのか判別する暇もなく、頭の中は飽和状態に陥り始める。
限界を超えた頭脳が、意識を切り離すという手段を実行するまで、大した時間は掛からなかった。
『あら、ちょっと』
『倒れたわよ、あの子』
『大丈夫かしら…』
ざわざわとした現実の音も、同じように耳の奥へと落ちてくる。
一体、この音を何度聞いただろうか。
幾度繰り返せば、この音が消えるのだろうか。
頭の奥に流れ込んでくるノイズは、幾度も幾度も頭の中をくるくると回り続けている。
決して途切れる事無く。
「………は言うけど……結構大変…」
話し声に意識が浮上した。瞼を閉じていても、人工の明かりがその空間を昼のようにしているのが良く分かる。
「それ……するのが貴方の……でしょう?……違いますか?」
「はいはいって。…お?」
男性が二人。どうも話しているのは枕元のようだった。直ぐ真上で声が聞こえる。
眩しさに目を細めながらも、ゆっくりと視界に映像を送り込んだ。
「目が覚めたみたいですね」
視界に入らない所で、まだ少年のような声が響いた。視界にはこちらを覗き込んでいる男の姿。その向こうに素っ気ない、白の天井が目に入る。
どこかで見た顔だと、ヤマトはぼんやり思った。
そう、どこかで見た――――――
「っ!!」
ガバリと飛び起きて、ズルズルと後ずさった。
微笑してこちらを見ている青年。自分と同じか、もしくは少し上だろうと思われる年齢。
覗いていた映像と、流れ込んできた「怯え」の気持ちがぴったりと重なる。
『お前が……八神か。八神、太一か!』
『フルネームで呼ぶなよ…八神でいいって』
怯えていた男が呼んだ、青年の名前。
八神、太一。
その名が何を意味する言葉なのか、ヤマトはまだ知らない。だが、目の前にいる微笑を浮かべた青年の名前が、「八神太一」なのであろう事は簡単に予測が付いた。
怯えに支配された彼の精神は逃げ場を求める。忙しく視界を移動させて、辺りをキョロキョロと見やった。
整然とした室内は、どこか清涼感があった。其処にいる、四人の人物。
一人は「八神太一」。微笑したまま、こちらを見ている。
二人目は冷めた目でこちらを見つめる、少年然とした男。どこかのスクールの生徒だろうか?見慣れない、白い制服に身を包み、興味なさそうにこちらを見ている。
三人目は眼鏡を掛けた男。すらりと背が高く、医者なのか白衣に身を包んでいた。穏やかな顔を困ったように少し顰めて、やはりこちらを見ている。
そして四人目は女性。同じように白衣を着、眼鏡の男の側に寄り添っている。優しそうな表情で、同じようにこちらを見つめていた。
四つの視線を感じて、ヤマトは怯えたようにシーツを握りしめた。人間が側に居るときは、自分の体調が悪くなるとき。視線がこちらに有るときは、ノイズが流れ込んで来るとき。良いことなんて一つもなかった。だからこそ、彼は向こうの背の低い少年のように制服に身を包むこともなく、ひっそりと生活をしてきたのだ。
その自分が、望みもせずにこんな所に晒されるなんて―――と考えた所で、彼はようやく気が付いた。
この部屋は酷く静かだった。勿論、彼を含む誰かが動く度、衣擦れの音くらいはするのだが、何よりノイズが聞こえてこない。こんな静かな空間は、弟が居なくなってから、消えて久しい。
「では、僕は行きますから」
その静かな空間を、突然先程の少年の声が突き破った。唐突さに、少し体がビクリと震えた。
「なんだ、もう行くのか」
「ええ。後で報告をお願いします」
素っ気なくそう言い捨てて、彼は足音を響かせて部屋を出ていった。
その光景を、些か呆然と見つめていたヤマトであったが、目の前の男が口を開いた瞬間、我に返った。
「どうだ、気分は?」
再び、ビクリと震えてしまったのが自分でも分かる。
どうだ、とはどういう意味だろう。頭の中で、そんな風に必死になって考える。自分に何かしたんだろうか?自分は捕まってしまったのだろうか。ヤマトは逃げ道だろうドアを盗み見ながら、そう考えを巡らせる。
「太一さんっ!」
「っ!」
バタバタ、と音がして、扉が開いた。濃い金髪の頭が飛び込んでくる。それを見た瞬間、ヤマトは言葉を発しそうになった。見覚えのある顔立ち。
「目が覚めたってホント!?起きたら呼んでくれるって言ったのに!
ぼくだよ、分かる?」
元気いっぱいに飛び込んできた彼は、太一に詰め寄るや否や、こちらを振り向いて笑い掛けた。
ヤマトの瞳より少し濃いめの碧眼。愛らしい顔立ち。
成長しているものの、その顔にはやはり見覚えがある。
「ねえ、お兄ちゃん?分かる?ぼくだよ、タケルだよ!」
「あ…タケ」
言おうとした瞬間、後から入ってきた少女と目があった。大人しそうな、それでいて年齢よりも少し大人びているのではないかと思わせる容貌――――――
キィィィィィィイィィィィィィィィィンン…
「ぁ、う……あ、ああ…っ!!」
音に貫かれたような気分だった。聞くことのない様な高音が頭の中を駆け抜ける。
その高らかに響きわたる雑音の向こうに、人の声が聞こえていたことに、本人が気付いていたのかどうか。
「ヒカリちゃん、どうしたの!?」
「まずい、ハウリングだ!」
視界すら理解できないまま、ヤマトの意識は空白に消えた。
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